旧伊勢本街道を歩く

5. 曽爾村(奈良)~美杉町(三重)


2017年12月28日から翌年2日にかけて、伊勢本街道を大阪から伊勢まで歩いた記録。

大晦日。朝は雪。この旅初めてレインコートを着た。朝は恒例のカップラーメン。ジェットボイルでお湯を沸かした。曽爾高原に登る坂道の途中で鹿の群れの先頭に出くわした。甲高い鳴き声がしたのは後列に危険を知らせるためだったのだろう。そういえば榛原の山の中でも同じ鳴き声を聞いた。其のときは鳥かなにかだと思っていた。坂を上りきったところで左に曽爾高原、右が伊勢街道に戻る道に分かれた。せっかくなので一応高原を見に行った。駐車場から園内に上る途中に社があったので軽くお辞儀した。真新しい地蔵もあった。池のそばの東屋には寝袋らしきものが置いてあった。誰か夜を明かしたのだろうか。誰にもあわなかったが。

低温のせいでiPhoneのバッテリーがいよいよ使い物にならなくなった。写真など撮ろうものならすぐに電池が切れる。モバイルももうそろそろ電圧が下がってきたし、お手上げ。せめてGPSで使えるように節約するしかない。旅が終わったらアンドロイドに移ろうと思った。山の中のようだったが、おそらくは進行方向から歩いてきてまた戻っていったのだろう犬の散歩の足跡がうっすら積もった雪の上にあった。動物は犬だけではないようで、どうもいのししか豚のものもあった。流行のミニ豚かな。あさから散歩とは活発な豚である。しばらく歩くと長尾という集落に出た。どうやら別荘地のようだった。

長尾に降りた時点でGPSすら使えなくなった。まだ歩き始め二時間もたたない。道標を見て歩くしかないが、それもなかった。人里でなければ遭難状態。ただまあ道はあったので、方向さえ間違わなければ伊勢神宮には近づくだろうと安易だった。ところが雲で太陽が隠れて方向さえわからなかった。磁石式のコンパスを持ってはいたが、人里で迷っても死なないので、ここは勘を頼ってあてずっぽうに歩いた。後々確認すると、このときに長尾から北東に歩いていた。伊勢神宮は南東にある。長尾の集落を少し下に折りきったところでスクーターに乗った男性に会って道を聞いた。彼は親切に細かく教えてくれた。その細かさが彼をかえって疑心暗鬼に導くことになったのだが。

私としてはこの道を歩き進んで分岐を間違わなければいずれ御杖につけるとわかっただけでよかった。男性に礼を言って分かれた。歩き進むと恒例の土砂崩れ通行止めの板があった。人間は通れるのでそのまま突っ切った。大分歩いた。1時間ほどだろうか。すると後ろからさっきの男性がスクーターで走ってきた。で私の横で止まった。「すいませんお兄さん!」。何でも、さっき教えた道に間違いがあったというかややこしいことを言ってしまったので心配になって戻ってきたらしい。もう一度教えてもらった道も良く分からなかったが、どうやったら私が首尾よく彼の説明を理解しつくしてこのあと再び彼の良心を苛むことがないようにできるかだけ心配した。

両手を木々に囲まれた薄暗い道を抜けると、比較的新しいログハウスばかりが立つ集落に降りた。神末(コウズエ)というらしい。古い家はないので開拓地だろうか。なんというかいい空間作りをした洋風のログハウスが多かった。別荘かな。軒先にはほとんど皆車が止まっていた。川の向うの大きなハウスには家族連れがいた。なんといっても大晦日である。それからしばらくして国道368号に出た。車道に出ると道標があるので分かりやすい。其のまま御杖の姫石の湯まで歩いた。そこで昼食と休憩。やはりここでもリラックスしきった家族連れが多かった。まだ行程の途中なので風呂には入らなかった。二時間ばかり過ごした。すでに一日の半分を歩いた。

榛原を過ぎて以降奈良は意外と東に長い。旅程5日目にしてようやく奈良から三重県美杉に入った。とたんに家々が暖簾やら屋号たらを軒先に垂らすようになった。鍛冶屋とか旅籠とか各家に名前がついている。漏れなく伊勢本街道の添書があるので、なんらかのプロジェクトだろう。面白いのだが意味が分からないので困った。旅籠と言っても泊めてくれるわけではなさそう。昔その商売をやっていたのだろうか。榛原以降奈良は山が多かったが、三重に入ると古道街道らしくなってきた。道もくねってまっすぐ伸びず、道の左右には古い家が並んだ。常夜灯もちらほら見た。

コンビニや食品店などは皆無だった。一軒の民家は軒下で無人販売をしていた。申し訳程度の食料品とあとはみやげ物だった。昔は商店を営んでいたであろう家の前のガラスショーケースには骨董品や映画のポスターが飾られてあった。「嵐が俺を呼んでいる」というやつ。収穫されず落ちるに任せる柿の木もたくさん見た。干し柿にする価値もないということか。陶芸家らしき洒落たギャラリーもあったがやはり閉まっていた。

豪邸もいくつか見た。石名原の、敷地内にレンガ造りの洋風の建物を残していた民家は印象的だった。昔に集会所か何かに使っていたのか、それとも何かの事務所だったのか。ああいう家を見ると中を見せてもらいたくなる。母屋とレンガ作りをつなぐ間がどうやら台所のようだった。

昼間遠回りをしたためか行程は大幅に遅れた。美杉の大晦日でもやっていたキャンプ場に予約を入れていたのだが(3千円)、飼坂峠に入る前に日が暮れていたのでキャンセルの連絡を入れた。三重に入るといくらか道標が分かりやすくなった。そこには多少不気味な「首切り」の文字があった。368号を東に上多気に抜けるトンネルがあり、それを脇に反れて薄暗い(というか夜なので真っ暗だった)山道に続くほうが本街道だった。そして飼坂峠である。峠道に入るところにこの道の歴史を親切にも教えてくれる真新しい案内板が設置されていた。なんでも昔この峠を越えようとした人々が山賊に首を切られて殺されまくったという。それを供養して首切り地蔵を置いたとかなんとか。(下に続く)

本居宣長いわく不気味な峠らしい。火の玉が泳いでいるくらいならなんでもないが、いやむしろ写真に撮ろうとする余裕さえあるはずだが、静寂そのものの夜の峠みちで後ろから声を掛けらたり、そこにいるはずのない昔の格好をした首と胴体の付け根から血を流した旅人に道を聞かれたり、目の前に山賊の亡霊が立っていたりするのだけは避けたい。夜の山道も平気で歩くほうだとは思うがこういう先入観があるとそういうわけにも行かなかった。引き返して大人しくトンネルをくぐるかどうか真剣に悩んだ。それにしても親切な案内板である。夜に一人で峠を越えようとする奴のことを考えていない。もといトンネルを潜るのでは面白くないので、覚悟を決めて山道を歩くことにした。道標の距離表示が数キロと短かったこともあった。1時間もあれば超えられそうだった。

山道を楽しむ余裕はなし、一寸立ち止まって夜山の静寂を見渡す度胸もなし、落ち葉や石ころを踏み歩く音だけが唯一心のよりどころだった。首切り地蔵など視界に入れたくもない。そういえば数日間変えてないヘッドライトのバッテリーが突然切れないことを心から願った。風一つなかった。いきなり突風が吹いてくれるなよとも願った。行程の終盤ではあったが峠越えの間は体力には底がなかったようだった。再び人里に下りるまでかの恐怖心は続いた。最初に当たった古民家(たぶん昔は旅籠)で初めて人を見た。家族連れだった。正月の里帰りだろう。暗い峠道のほうからヘッドライトを揺らして歩いてくる私も彼らにとっては不気味だっただろう。挨拶の一つもしようとする前にそそくさと家の中に入ってしまった。昼間なら目に楽しい古街道も、夜は暗いだけである。灯りも最低限しかなかった。

其の夜は美杉の道の駅のベンチで寝かせて貰った。缶のコーンポタージュを3本くらい飲んだ。お汁粉も一本飲んだ。時折やってきては道草をして去っていく車はふっくら膨らんだ寝袋を皆一瞥して行った。予報どおり雨が降っていた。そういえば今夜は大晦日だった。明日見る朝日が初日の出になる。晴れるだろうか。(了)