旧伊勢本街道を歩く

2. 奈良~天理


2017年12月28日から翌年2日にかけて、伊勢本街道を大阪から伊勢まで歩いた記録。

12月の終わり、公園の木製のベンチの上にマットを敷いて(サーマレストのZライトソル)、シュラフで寝たものの、朝方は下が少し冷えた。寝袋が効果を発揮するのは地面と密着していないふっくらしているところだけである。もっとあったかくてコンパクトに収まるエアマットがいるかもしれない。

朝は空いっぱい雲に覆われていた。合間に少し陽の光が漏れていた。猿沢池のほとりを出発し、ならまちを通る本街道をほぼまっすぐ南に下る。ならまちの通り沿いには創業数十年はありそうな店や古いたたずまいの民家がいくつも並んでいた。

奈良の中心を抜けると比較的新しい、昭和後期以降であろう建物ばかりになっていく。明治や江戸の昔には周囲には何もなかったのかも知れない。街道はこうやって古い集落を縫うように進んでいく。その集落の中心には寺か神社があることが大半だった。少し大きな集落には医者もおり、いまの時代になっても古いが雰囲気のある建築の医院が随所に見られた。この厳しい時勢にどうやって競争に勝って利益を上げているのか分からない商店や製造業者等も多いが、知らないのはこちらのほうだっただろう。古く長く続く稼業には同じように古く長い流通や顧客がある。(下に続く)

街道は道幅が一定せず、現在の片道一車線の国道のようにまっすぐ続いていない。曲がっているというよりは目的地に向かって蛇行している。至るところに小さな社、地蔵、道標が残っており、これらを残してきた人々の心には頭の下がる思いがする。ほぼ平成の生まれにとっては、利益に先んじて歴史と風土を尊重するという当たり前の事が尊く感じられるものだ。これらの遺物が立っているのは誰かの私有地であるはずで、やろうと思えば古い社を壊してほかの用途に使う事だってできたはず。それが代々受け継ぎ、管理し、掃除もして、必要があれば新しく建替える。新しい私はどうしたらこの心を学べるだろう。

石は残るが、流石に大きな木々は集落の最中にはあまり残っていない。気の利いたところでは社のすぐちかくの通り沿い樹齢七,八十年以上はあるような大木が残されていた。それ以外のほとんどは神社の境内にあることが多い。神社は大木の天国である。中には神木として祭られている巨樹も多い。

桜井まではほぼJR沿いに街道は続く。奈良を出てから最初に出会った古めかしい集落は今市町(帯解)で、近い間隔に寺が二つあった。二つとも安産祈願らしかった。奈良の名前のもとになったとかいうなら神社はしずかだが穏やかな風が吹いていた。

なら神社の本殿らしき場所に近づくと沈黙の中に何かを語るような、枝葉のかすれる音や耳を吹く風が一寸止んだ。賽銭を入れようと思ったが十分な小銭がなく、お礼だけ言って出てきた。鳥居をくぐるときの一礼は忘れない。ご利益などと大それたことは言わないが、怒られても困るわけである。この旅路では街道の性質上いくつもの神社に参ったが、1円や数十円では申し訳がたたないような気がして、かと言えば千円はちと多すぎるのではないかとも思った。挙句、名のある神社では仕方無しに千円札を賽銭にしたが、それ以外の神社では50円~500円を入れれるよう、常に小銭は欠かさないようにした。(下に続く)

天理市の北部に差し掛かると、街道沿いにはこれまで見たよりひとまわりもふたまわりも大きな屋敷が並んでいた。街道はこのままさらに南下、天理の鉄道駅の横を通り過ぎて丹波市町にある旧宿場町に向かう。が、ここで一度進路を東にとり、行って見たかった石上神宮(いそのかみ。読めない)に向かった。神宮への道中は天理市のどまんなかを通るので、天理教の施設建物が多く目に入る。其のいずれもが広大かつ巨大だ。私が通ったときは人通りがほとんどなく、車通りもあまりなかった。とかく、あのように広大な空間の造作は日本全国探してもなかなか見れるものではない。

石上神宮は、宗教都市の巨大な建築群を一望する少し高い丘の上にある。両端を木々に囲まれた広い参道を進むと、右側から暖かな陽の光が差し込んできた。元日を前に初詣の参拝客を見越したロープの進路仕切りや駐車場の案内板が幾つか設置されていた。木葉の風に揺れる音と一緒に奥のほうから鶏の鳴く声が聞こえた。話に聞いたとおり放し飼いにされていたが、猫に食われないのかな?と思った。

石上神宮に興味を持ったきっかけは、歴史と破壊の相反するエピソードを読んだからだった。歴史については伊勢神宮同様、神宮を古くから称するとても古い神社であるということ、伝承どおり禁足地から神宝が発掘されたということ、同様に禁足地に足を踏み入れてこともあろうに御神体を掘り起こした(破壊)こと。長い歴史と自然の中にもどこか自由な風の吹く神社だった。歴史の解明と保護という相反は日本にとっては半永久的なテーマである。

まずは参道進んで右上にある小さい神社の数々から参った。一人鳥居をくぐって社がいくつもあるのでどちらに向いたらいいのか悩んだ。また小銭が足りなかった。最後に拝殿に参った。まだ年末だったが、境内には既に授与札や御守りを扱う仮設のテントが設置されており、巫女姿の高校生らしき少女が数人対応していた。とりわけ一人の背の高い巫女が美しかった。神札は伊勢神宮のものよりも若干高かった。旅路なので余計な荷物は要らない。旅の安全を祈願した。(下へ続く)

 

悪くしている膝に負担のないよう、一日の行程は大休憩を挟んでほぼ二つに分けていた。3,4時間歩いて2,3時間休憩、また3,4時間歩くといった感じ。今日は石上神宮の鏡池のほとりにある休憩所で2時間ほど休ませてもらった。とても寒く、防寒用に持ってきたモンベルのローガンダウンを着込んでじっとしていたが、どうしても冷えた。例の鶏も近くで数十羽固まってじっとしていた。

14時頃には石上神宮を出発、旧宿場町に向かって本街道に戻り、そのあとは大和神社を目指した。旧街道にはいたるところに宿場町があるが、各集落今でも一つや二つ開店してくれたらありがたいのにと思った。贅沢したいひとは歩いて旅はしないので、素泊まりで簡素な布団だけでよし、食事があってもご飯と味噌汁と漬物だけでいい。それで3,4000円くらいで泊まれたら最高である。

 

次に寄った大和神社は、境内の案内板によれば戦艦大和とかかわりがあるらしい。正月前の準備のために何人かが忙しく立ち回っていた。そのいずれもが老人だった。落ち葉を履いたり、広場の真ん中で燃やす木材を集めたり、本殿らしき場所でモノを二人で一生懸命に置き換えたり。途中近所の奥さんらしき人が差し入れを持ってきていた。見た神職は一人だけで、巫女はいなかった。ご近所のしかも年寄りだけががんばっている感じで、さっきの石上よりもはどこか寂しさを感じた。

戦艦大和はこの神社の祭神の分霊を祭ったというが、それとなればどこか縁起の良い話ではあるまい、とまず最初に思うも、次に神頼みで戦争に勝てたら苦労しないと返すと、たちまち正気に戻る。祀っても沈んだととるのか、祀ったためにあれほどまで持ちこたえたととるのかはその人次第だ。

とかくそれはどちらでもないだろうと思う。乗り込んで命を落とした日本人を思った。入るときは端の細い道からだったのを、出るときは正面の参道を通った。とても広い長い道だった。大きな木がいくつもあった。また右後ろほどの木立の間から陽が差し込んでいた。

大和神社を出たてのところで道を間違え、一度国道に出てしまった。既に陽が沈みかけていた。来た道を戻り、また本街道を歩き出した。西のかなたに金剛山と葛城山、その向うに沈む陽の夕焼けが見えた。予定では毎日20時までには寝て、朝5時までに起床、6時までには出発するつもりだったので、もうそろそろ寝床を探さねばならなかった。その日は古墳横のトイレのある公園のベンチで寝入った。とても暗かったが、近隣住民の犬の散歩のコースになっているらしく、結構話し声が聞こえた。食料は数百メートル離れた場所にある国道沿いのコンビニで調達した。(了)